三島由紀夫「金閣寺」 何かを美しいと思うことについて

まずは三島由紀夫の「金閣寺」を読んでみます。最近再読をしたのですが「金閣寺」は自身二十歳の頃に読んだきりで、およそ二十年ぶりの再読となりました。読む前に残っていた印象は、主人公が女の腹を踏む衝撃的なシーンが確かあったな、ということと、結びの文章が鮮やかだったなというところでした。これは最近「100分de名著」で取り上げられたということもあって、そこでの平野啓一郎さんによる解説も念頭に置きながら読むということをしましたが、名著は再読に堪えるし、二度連続で最初から最初まで読んだのですが、何度読んでも都度得るところがあるなと感じました。
三島由紀夫の作品が全般にそうだと思うのですが、漢語を駆使した言い回しが多く、読むのにある程度の語彙もしくは語の意味を類推する力必要だなと改めて感じました。ほんの冒頭を読むだけでも

やがて私は父母の膝下(しつか)を離れ

一日に四五へんも時雨が渡った

というような表現が見られます。文庫では恩田陸さんが解説を書いていますが「あまりにも完璧かつ誰にも真似できない美文」と評しています。思ったことはいろいろとありますが、今回は「美」について考えさせられたことを書いてみたいと思います。

途中でこの小説の語り手が「金閣を焼かなければならぬ」という思いに至った後の文章を引いてみます。

おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受け持ち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。

「美」と人間存在を対比し、人間のようにモータル(いずれ死ぬ運命にあるもの)は根絶することはできないが、金閣は純粋な破壊をすることができる。「金閣のように不滅なものは消滅させることができる」という一読矛盾しているような印象を与える言い回しで語らせています。消滅させることができるということは美しいものであるということだ、というような捉え方とも考えられます。私が若い時に読んだときは、主人公が金閣寺を焼くに至る理由は、主人公に破滅願望があるからであり、この小説は金閣寺と共に心中する男の物語、というような印象で読んでいましたが、「そもそも美しいと思うことは何であろうか」という問いを小説の中で表現したもの、というような印象を新たに持ちました。美しいものは根本的に滅亡を内に含んでいる、というようなことになるでしょうか。その読み方に至るのに平野さんの解説にある三島の戦争体験といったものと合わせて読み解いてみる、というような姿勢が助けになったところも多かったです。
何かを「美しい」と感じること自体は一般の生活の中でも普通にあることと思います。「美しい」と感じたときに立ち止まってその「美しさ」がどういうところからきているのか?というのを問いかけてみる素材の一つとして「金閣寺」を読んでみる、というのも面白いのではないでしょうか。